ひろしまアニメーションシーズン2022

JOURNAL ジャーナル

2022.05.25 コンペティション紹介

コンペティション選考委員座談会 第2回

ひろしまアニメーションシーズン2022 コンペティション選考委員座談会 

第2回 コンペティション作品の選考について(前半)

※第1回はこちらからお読みください。

土居伸彰
ここからはセレクションチームの皆様に、コンペティション作品の選考がどのように行われたのかをお話いただきたいと思います。今回セレクションチームの人選については山村浩二さんからご推薦をいただいたのですが、どういったお考えからこのようなメンバーになったのでしょうか?

山村浩二
宮嶋龍太郎さんは、龍野国際映像祭をほぼ一人で立ち上げて、そこでの選考の経験があること。現在は東京藝術大学の博士課程に在籍していて、とても批評性を持ってアニメーション作品に接しています。また、彼は東京藝術大学の先端芸術表現科からアニメーション専攻に入ってきたという経歴から、アニメーションについてのみ考えている人ではないという点からも適任だと思いました。

矢野ほなみさんもいろいろな大学を経験していて、美術大学とかアニメーション専攻以外の価値観も持っていながら、同時にクラシックなアニメーションの大切さもよく理解している。二人とも私のゼミの出身で、在学時から自分の価値観と意見をしっかりと持っていると感じていました。

土居
今回の選考委員会のメンバーは、外から見た時に「藝大の人脈」という見え方をしてしまうかもしれないのですが、アーティスティック・ディレクターの方々にしっかりと実権を持っていただくという映画祭の方針を考えると、選考委員の人選については、今回のように意見を異にしつつも同じ方向性を共有できる人が良いと僕としては思いました。

アニメーション映画祭の選考の歴史を振り返ると、最初はいわゆる「ASIFA型」のシステムから始まりました。国籍の違う選考委員たちを映画祭の外部から集め、全ての作品を観てもらい、ディスカッションするというやり方です。いろいろな観点を持ち込めるという意味では良い方法ですが、毎回選考委員のメンバーがリフレッシュされることで、映画祭の歴史や文脈が継続されづらいという問題があります。バックグラウンドが全然違う人たちを集めたとき、上手くいけば多彩な視点を持ち込めますが、人選が上手くいかなければ、バラバラな好みをただ単に組み合わせただけの、何を訴えているのかがよくわからないセレクションになってしまう怖さもあります。

オタワ国際アニメーション映画祭でアーティスティック・ディレクターのクリス・ロビンソンさんが一人で選考をするようになったあたりから、選考に関しては、フェスティバルの方できっちりと責任を持ってやっていくというところが多くなったように感じます。現在では、映画祭内のコアスタッフでチームを組んで選考をしていくというのが定番化しています。

山村
映画祭の外部から国際的に選考委員を呼ぶというやり方が公平なものとして有効に機能しえたのは、まだアニメーションコミュニティがものすごく小さくて、応募本数も数百本であった時代の話だと思います。今のように応募本数が数千作品という時代になってくると、共通の価値観を築くためのディスカッションをしたところで、初対面の人たちをチームとして集めたのでは、ちゃんとした軸を持ったセレクションを提示することが難しくなってしまいます。

土居
僕が新千歳空港国際アニメーション映画祭の立ち上げに関わったときも、そういう事情を意識していました。アニメーションの専門家である僕に加えて、地元の北海道で活躍されている方三人に入っていただくことで、専門性と外からの視点とのバランスを保ち、なおかつ毎年ほぼ同じメンバーで選考することで、映画祭の色を歴史として積み上げられるようにしていました。ひろしまアニメーションシーズンのやり方は、それをさらに先鋭化したようなイメージですね。

宮嶋くんや矢野さんは選考委員の話が来たときに何を思いましたか?

宮嶋龍太郎
2020年の広島国際アニメーションフェスティバルがコロナ禍で実地開催中止になったことで参加できず、最初にお話をいただいた時は、広島という映画祭がどういった価値観の映画祭なのかをもっとちゃんと知ったうえでないと難しいのではないかと不安に思いました。ですがお話を聞いていくうちに、今回の映画祭が前とは違うものであることがわかりました。自分の中で憧れだった広島でのアニメーション映画祭に関わることができるということと、自分がその新しい始まりに関われるという二つの喜びが湧いてきました。

選考審査会は、アニメーションに対する自分の価値観の偏りを見直す機会にもなり、想像以上に面白かったです。選考会議は三日間でしたが、もう一日あってもよかったと思うくらい充実した時間でした。

矢野ほなみ
選考委員に加えていただけるとお伺いしたときは、喜びと同時に、これは責任重大だぞという思いがありました。また、全ての作品に目を通すのはもちろん、「たとえ応募作品がアニメーションには該当しない作品、例えば実写であったとしても、最初から最後まで目を通すくらいのストイックさでやる」と伺ったときに、とんでもない勉強の機会になると思いました。作品を実際に観ていくなかでも、そもそもアニメーションの定義とは何だろうと改めて考えさせられるくらい、アニメーションについての価値観が揺さぶられるような経験になりました。

土居
アーティスティック・ディレクターである宮﨑しずかさんにもセレクションチームに参加していただきましたが、宮﨑さんはどうでしたか?

宮﨑しずか
当初は宮嶋さんと矢野さんがプレビューして、作品数を絞ったうえでアーティスティック・ディレクターの2人が選考するという話だったので、少しライトに構えていた部分もありました。しかし結局、全員が全ての作品を観ることになり、大変でした(笑)。いろいろな作品を観ていくうちに、そこに描かれているもののみならず、その作品を作るに至った意志の全てや、作品が作られた国の事情についても考えなければいけないと思うようになり、何度も作品を見直しました。その結果とんでもない時間がかかりましたが、一人合宿をしているようで楽しかったです。

土居
当初の選考システムの設計としては、宮嶋くんと矢野さんが全作品を観てピックアップした作品に加えて、「ひろしまアワード」のために環太平洋・アジア地域を中心とした様々な国の有識者の方に各地域の有力作品を推薦してもらい、それらのなかから議論するという予定だったのですが、山村さんが「全部観ます」とおっしゃったことで、すべてが覆されてしまいました(笑)。

矢野
しかも一番観終わるのが早かったのが山村先生で、私と宮嶋くんが一番時間かかってしまいました(笑)。ただ全員が全作品を観たおかげで、選考審査会では全部の作品を議論に上げることができるようになりましたし、熱い議論もできました。

土居
今回、実は作品募集をしている段階では、「ワールド・コンペティション」のカテゴリをどう分けるのかは決まっておらず、応募された作品の全てに目を通していただくうちに、山村さん主導でどうカテゴリ分けしていくのかを考えていくかたちになりました。

結果として、フィクション系の作品が集まる「寓話の現在」、ドキュメンタリーや社会問題などを扱う「社会への眼差し」、ポエティックな作品が集まる「光の詩」、アニメーションならではのユニークなストーリーテリングをする「物語の冒険」、子供向けの「こどもたちのために」という計5つのカテゴリーに別れたわけですけど、この分け方はどのくらい事前に想定されていたものなのでしょうか?

山村
事前に漠然と思い描いていたものはあったのですが、そのそれぞれについてカテゴリーとして成り立つぐらいのクオリティの作品数が集まるかどうかは、実際に応募作品を観てみるまではわかりませんでした。例えば、アニメーション・ドキュメンタリーはここ10年くらい世界中で流行しているので多いだろうと予想できましたが、抽象的なアニメーションがどれくらい集まるかは予想できませんでした。実際に作品を観ながら考えていくことで、確信を持ったカテゴリ分けにすることができたと思います。

本当は、もう一つ、「エキゾチック日本」というカテゴリを作ろうという案がありました。応募された作品の中に、日本文化からの影響を受けた作品や、日本の様々なテーマを日本人ではない人たちが描いている作品が数多くあったことに驚いたからです。20年前に僕が映画祭の一次選考をしていた頃は、なんとなく日本のアニメーションに影響を受けたのかなという作品が一本あるかないかという記憶があるのですが、今回2,000本以上の応募作の中に、様々な視点で日本を捉えている作品があった。そういう作品に出会うたびに、これをカテゴリ化したら面白いのではないかと思っていました。

土居
「光の詩」と「物語の冒険」は、一般的に「エクスペリメンタル」や「ノンナラティブ」という言葉でひとまとめにされがちです。今回この二つのカテゴリをまとめずに、あえて分けたのにはどのような理由があるのでしょうか?

山村
ここを分けたのが今回、自分としても一番大きな発見であり収穫でもありました。例えばオタワ国際アニメーション映画祭は「ナラティブ」部門と「ノンナラティブ」部門とを分けることで、実験的な作品とそうでない作品とを峻別していますし、アヌシー国際アニメーション映画祭は「オフリミッツ」という部門に、既存のアニメーションの概念からはみ出た捉えづらい作品を振り分けています。

そのような分け方は一見すると良いように思えますが、「本道に添う作品」と「そこから外れる作品」という分け方にも考えられるので、納得のいかないところもあります。また「ナラティブ」と「ノンナラティブ」という区分自体も、物語性のある抽象的な作品や、抽象的ではないけれど物語とは別の側面が強く押し出されている作品もあり、決して自明ではありません。

実験的な作品は、一般に、他の多くの作品とは評価軸の異なるものとされています。しかし僕はそもそも抽象的でポエティックな作品こそ、アニメーションにおいて最も重要なカテゴリだと思っているんですね。ビジュアルを使って物語を語ること自体や、物語の実験も小説などで行うことができますが、ビジュアル・ポエトリーに関してはもうアニメーション以外ではやりようがない。「光の詩」には、そういったアニメーションのみが行うことができる表現を集めています。このカテゴリーの英語タイトルを「Visual Poetry」にしたのはそのためです。

土居
「光の詩」の英語タイトル「Visual Poetry」はオスカー・フィッシンガーの「Optical Poetry」へのオマージュでもあるんですよね。

山村
アニメーション黎明期である1920・30年代には、映像の独自性についてドイツやフランスを中心に世界中で考えられていました。この灯火はカナダやドイツの方で、いわゆる実験アニメーションと呼ばれる分野に受け継がれましたが、こういった流れが決して単なる傍流ではなく、実はアニメーションの最も大切なところであることをわかってもらおうと思い、このようなタイトルにしました。

土居
そもそもオスカー・フィッシンガー自体、今、山村さんがおっしゃったような文脈や絶対映画とも繋がりながら、アニメーションでしか出来ないこととは何かを考え続けていた作家ですよね。「Optical Poetry」もそれに対するフィッシンガーなりの答えとして作られた言葉・作風であり、「光の詩」というカテゴリはそういった流れを汲んでいます。

一方で、アニメーションがどのように物語を語りうるかという問題も長い間考えられてきました。今回カテゴリーを分けるに当たって、最初の内は「フィクション」と「メタ・フィクション」のように物語をどう語っているのかで分ける案もありましたよね。

山村
そこも大変悩んだところです。最初に考えたのは「アニメーション・ドキュメンタリー」というカテゴリーを作りたくないということでした。アニメーション・ドキュメンタリーはテーマや題材を設定しやすくとっつきやすいので、ここのところ流行っていますが、アニメーションが本当にドキュメンタリー足りうるのかはちゃんと考えなければいけません。

また最初の頃は「フィクション」と「ノンフィクション」という分け方も考えていました。それに加えて、応募された作品を見ていくうちに、抽象でなくともアニメーションについて自己言及するために作られたような実験的な作品がいくつもあることに気づき、そう言った作品を「メタフィクション」と呼んで、「フィクション」、「ノンフィクション」、「メタフィクション」の三つに分けるのはどうかと考えていました。しかし改めて考えてみると、フィクションが何かというのも決して自明ではないし、ノンフィクションについても社会的なテーマをフィクショナルな語り方で語っているものもあるので、このカテゴリー分けもうまく機能していない。

そのため社会的な視点を含む「社会への眼差し」、物語の中身が重要な「寓話の現在」、実験的な物語の語り方をする「物語の冒険」というカテゴリ分けをすることにしました。物語と抽象の中間にある実験的な作品は「メタフィクション」という言い方ではまとめられないと思ったので、「物語の冒険」というカテゴリが立ち上がったんです。

土居
「寓話の現在」にはフィクショナルな作品が集められていますが、単に寓話性の強い作品を集めた訳ではないんですよね。このカテゴリはアニメーションにおける物語とはどんなものでも寓話的なのではないかという、アニメーションの語りに対する一つのコメントとして機能しているように見えます。

山村
大前提としてアニメーションは人の手で作られているので、アニメーション・ドキュメンタリーだろうと実験的な作品だろうと、アニメーションである限り全てがフィクションであると言えます。だからこそアニメーションが物語を語るとき、そこで語られているのはフィクションではなく、寓話である。「寓話の現在」というタイトルには、そういったアニメーションの機能に対する言及が含まれています。

土居
ありがとうございます。他のお三方はこういったカテゴリー分けがされたことによって、何か作品の見方が変わりましたか?

宮嶋
カテゴリを分けたことによって観客の気持ちをより意識できるようになったと思います。暗い劇場に入ってきた匿名の観客という意識ではなく、子供向けのアニメーションを期待しているとか、寓話性について何かを考えているとか、プログラムを見る人が何を期待しているのかを意識しながら選考を行いました。

五つのカテゴリの中でも、最も観客を意識したのが「こどもたちのために」です。単に子供向けに作られたアニメーションをピックアップするのではなく、子供に対して何を見せたいのかを考えながら選考を行いました。自分自身も子供の頃には、子供向けではない作品をたくさん見ていたので、まっさらで純真無垢な子供という存在を想定しないように気をつけていました。

土居
矢野さんはどうでしたか。

矢野
今観ている作品が最終的にどこのカテゴリーに入るのかを考えながら観ることで、作品の見え方がだいぶ変わったと思います。例えば「物語の冒険」は選考段階では「アニメーションforアニメーション」という名前でしたが、ここに選出されている作品はアニメーションのためのアニメーションという見方をした時に、見え方が大きく変わってくると思います。特にジョルジュ・シフィアノスの「The Blind Writer」は物語のみに着目すると見逃してしまうものが多く、語りの実験性を意識した時に初めて作品の見方がわかったように思えました。

また「光の詩」については特に様々な見方や切り口が求められるので、観ていると自分の作品鑑賞の傾向性がわかってくると同時に、アニメーションにはそれ以外の様々な味わい方があることも感じられると思います。

土居
宮﨑さんはいかがでしょう。

宮﨑
コンペティションといえども、観客のために作品の見方をある程度提示した方が良いと思うので、カテゴリ分けには大きな意義があると思います。また、先にASIFA型の選考システムにおいては異なるバックグラウンドを持った人たちが集まって選考するという話がありましたが、そのようにして評価軸を設定することなく選考すると、いかにもグランプリを取れそうな作風の作品が選ばれやすくなり、結果としてそうではない作品の魅力を見落とすことになってしまいます。「こどもたちのために」や「光の詩」は特にそうですが、こういったカテゴリがあることで、作風的にはグランプリにはなりにくい作品の価値をもこちらから提示できるようになったと思います。

※選考の基準をめぐる第3回に続く。