コンペティション選考委員座談会 第3回
第3回 コンペティション作品の選考について(後半)
※前回、第2回はこちらからお読みください。
土居伸彰
選考会議では「良い作品とは何か」という議論を多くされていた印象です。皆さんそれぞれ作家として活動されているのもあり、表現の良し悪しについての基準を各々無意識にでも持っているわけですが、選考にあたってはそういった定義をいかに疑うか、という話が出ていました。
矢野ほなみ
わたし自身も作品を作っており作り手の立場へ心を寄せることがありますので、他者の作品を評価する立場になるのであれば、安易な見落としは許されないというプレッシャーがありました。鑑賞時にはメモを取り、可能な限り要素を言語化するようにしました。良い作品の基準については正直なところわかりませんが、他の選考委員の皆さんとの議論の中で見つけていったところもあります。
選考会議では意見がぶつかり合う場面も多々ありました。自身としては当然コンペインするだろうと思っていた作品であっても、他の選考委員から別の見方を提示されたことで、擁護できなかったり、あるいは別の気づきがあったり。瞬発力が発揮される場面で、他者を説得できるぐらいの反論ができるのかどうかが、自分にとっての「良い作品」の基準となった側面もあります。
宮嶋龍太郎くんから、「その作品、墓場まで持っていけますか?」「この作品がグランプリになってもいいの?」ということを言われ、作品と向き合うヒントになった部分もあります。価値基準は審査員によりますし、人それぞれだと思いますが、濃密な本選考会の時間においては「この作品がグランプリ」「この作品と墓場に入る」と思えたものが、自分にとっての良い作品だったように感じます。
宮嶋龍太郎
もし選考する側に無限大の審美眼があれば、その力を利用してこれ以上ないほどの良い作品を作れるはずですが、現実にはそういうことはないわけです。なので、あくまで自分たちの審美眼は不完全なのだという意識を持って選考するようにしていました。
自分の作品に酔っているというか、「こういうものを作れば観客はある程度どうにかできるだろう」という邪な作為を感じる作品には厳しい評価をしたと思います。逆に、新しいことをしようと冒険していたり、過去の作品に対するリスペクトが感じられる作品だったり、作家の内面や人生をアニメーションに封じ込める真摯な姿勢が窺い知れたりする作品はすごく気持ち良く観れました。もちろん、テクニカルな面もあわせての総合評価なので評価軸はそれだけではありませんでしたが、葛藤や価値観の揺れ動きが感じられる作品を評価するようにしたと思います。
土居
宮﨑さんは他のお三方よりも少し引いた視点というか、広島市民の視点からも発言されていましたよね。
宮﨑しずか
作品を選ぶときは、審査するという意識ではなく、ごく個人的な視点を大切にしました。たとえば、ただいたずらに攻撃的なことを人に突きつけるのが革新的だと思い込んでいるような作品は、広島市民としての自分が持っている問題意識からして、受け入れがたいと思いました。
そういう意味では、私が強く推した『Modo De Vida - A Goan Sketchbook』(環太平洋・アジアコンペティションに入選)は、「戦争があった」ということをこんなに優しい眼差しでアニメーションに落とし込めるのかというところに感動し、良い作品だと思いました。この作品への評価には、広島市民の視点がにじみ出ていたと思います。
選考をする前には、審査員というのは神様のような視点で物を見ることを期待されると思いこんでいたので、自分にそんなことができるのかと緊張していたんですけれども、山村さんに「まず自分の好きな作品を推してください」と仰っていただいたことで気持ちが楽になりました。
山村浩二
選考会を始めるときに初めに言ったことですね。「まず個人的に一番響いた作品を挙げてください」と。作品というのは、結局、作品と個のあいだの関係でしか成り立たないと思っています。特に映画館の暗闇で観る場合は、作品と一人の個人が繋がるわけで、その人にとって価値があるものがそれぞれにとっての良い作品になるわけです。西洋のギリシャの時代から「客観的な美の基準」みたいなものは美学のようなかたちで考えられてきたわけですが、普遍的な基準を作ることには成功していません。時代と地域によって、あるいは個人によって価値観が違うというところに落ち着いている。
審査会の最中には、価値基準について繰り返し考えました。「美」という基準自体もヨーロッパ的な話ですし、ポストモダン的な新しさに価値を置くのもまた西洋的すぎる。日本だと逆に、新しさよりも継続性や持続性を重要視していますし、時代もそういうものを求めつつあると思います。いま、改めて、日本的な価値観やアジア的な価値基準を、もう一度見直していく必要があると思っています。
僕らは西洋的な価値観とアジア的な価値観の両方を既に身に付けており、双方に良さと弱点があるので、両者のバランスを見つつ「良い作品とは何か」を考える必要があると思います。いずれにせよ強調しておきたいのは、一個一個の作品の価値というのは、多数の価値観を数値化して平均化することでは絶対に語れず、結局は自分にとって価値があるものでなければ良い作品にはなりようがないということです。
選考審査を通して今回僕たちがやったのは、価値評価というよりも文脈付けだと思っています。カテゴリー別に分けたのもそうです。選ぶというよりも、その作品のあるべき場所を見つけるというイメージですね。
土居
今回、入選作品を決めるにあたって、「自分自身がプロデューサーや監督として関わっている作品についてもどうぞ選んでください」ということを言いました。山村さんがいま仰っていたように、ひろしまアニメーションシーズンのコンペティションを選ぶうえでの意識が、コンテクスト付けであるという意識があったからです。
結局やりませんでしたが、世界中の映画祭での受賞歴なども存分に考慮してもらいながら選ぶ、ということをやってもらおうかとも思っていました。たとえば、矢野さんの『骨噛み』は、近年の作品の中で世界的に見ても高い評価を受けており、選ばれてしかるべきだろうとプロデューサーとしては思っていました。しかし結果を見ると、僕や山村さんがプロデュースしている作品のなかにはコンペインしたものもありますが、矢野さん、宮嶋くん、山村さんが監督した作品はコンペに入りませんでした。
「プロデュース作品や監督作品も選出していい」というルールについて、皆さんの中でどういった議論があったのかを教えてください。
宮嶋
この話をしないといけないんですね……(笑)僕はもう本当に二つに引き裂かれています。どう考えても客観的に見て『骨嚙み』はコンペインするべきという思いがあったので、個人的にはまだ割り切れていないところがあります。僕と矢野さんは大学院の同期なので近すぎるために客観的に見られていない部分もあるでしょうが、それでも他のコンペイン作品と比べても『骨嚙み』はコンペインするべき作品だという思いがあり、本当に迷いました。
他方で今の時代、作品を観るだけならば大概の作品はいずれVimeo(動画共有サービス)で観ることができるようになるので、作品を紹介するよりも、この映画祭を育てていくことを第一目標にするべきだという考えもあると思います。選考委員の関係する作品をコンペインさせると、要らぬ政治的困難を招いてしまう恐れもあるので、そういったものは最小化するべきだと思っています。次回以降、どのような形になるかはわかりませんが、選考する側も参加するうえで覚悟がいる、つまり自分の作品は入選しない、という形にした方が綺麗だと思います。
矢野
『骨嚙み』の話をしていただいてありがとうございます。わたしは議論を聞きながら、選考委員である自分の作品が入ることには居心地の悪さがあったので、この判断で良かったと思います。
山村
今回、僕がプロデュースした作品は、幸洋子『ミニミニポッケの大きな庭で』と、東京藝術大学の修了作品が入選しています。プロデュースも今後継続的に行うつもりですし、東京藝術大学で教えている以上どうしても自分の関わった作品は映画祭にも出てきます。プロデュース作品をコンペインさせないという方針にしてしまうと、若い世代の活躍を少しでも手伝いたいと思ってプロデュースしているのに、逆に阻害してしまうという矛盾を抱えてしまいます。
ただどうしても自分が関わった作品は、客観性を持って判断できないので、いろいろな映画祭の審査会に、自分のプロデュース作品や自分が関係する作品が入選している場合は、自分は議論に参加せず、判断を他の方に任せるというスタンスを取っています。それはそれぞれの映画祭で基準があるわけではなく、私のポリシーです。審査員によってはいい作品はいいのだからと自分の関わった作品を強く推薦される人もいますが……。
土居
「プロデュース作品や監督作品をどう扱うか」の最終的な可否を皆さんにお任せしたことについては申し訳ない気持ちもあります(笑)。今回は僕の会社ニューディアーがプロデュースした作品も2本選んでもらっていて、ありがたいかぎりなのですが、僕が海外のスタジオと組んでプロデュースをしているのも、日本のインディペンデント界を活性化したいという意図でやっているので、自分が映画祭に関わっているために発表の機会が奪われてしまうという事態は避けたいという思いもありました。
山村
この議論は最後の最後までもつれましたね。「もう決めた!」となった後、みんなで昼食をとっていた最中に「やっぱり違うんじゃないか」という意見が出て。
宮嶋
自分自身、作家として様々な機会にジャッジされてきたからこそ、自分たちがする選考についてそこに疑義が生まれる余地を残したくないと思ったんです。例え今回は疑義が発生しなかったとしても、将来この映画祭が続いていったときに、選考委員の監督作品が入り続けていてはどこかで疑義が爆発しうる。そういった疑義がもたらすリスクを管理するのに様々な政治的・精神的パワーを使い続けるのでは持続性がないと思い、意見しました。
山村
今回はこういう結論になって、今のところは良かったと思っています。本当に難しい判断でした。まだここは答えを出し切れていませんが、今回はギリギリのところで成立したのかなと。
僕もこれまでどちらかといえばずっと出品する側でしたし、自分の作品が選出されないときは何かしら良からぬことを思ったりもしたので(笑)、選考委員のプロデュース作品が入っていることも含めて、選考結果への批判は当然あると思っています。ただ選出した作品についていえば、それぞれの選考委員が一番推したいと思った作品でさえ、「セレクションではなく文脈付けである」ということを加味して、いくつも泣く泣く落としました。結果的には、これしかないというところまで磨き上げた作品群になったと思っています。
土居
「広島でやる映画祭は世界のアニメーション界を代表するものであってほしい」という個人的な思いがあります。業界内に向けるだけではなく、アニメーションを知らない人たちにも良いものを観てもらえる場にしたいということです。
今回のやり方が最終的なものだと思っているわけでもありません。今回のコンペのやり方は、グランプリの選出方法も含めて大きな実験のプロセスでもあるので、今回のやり方がどういう議論を呼ぶかを、見てみたいと思います。こういった生々しい話も含め、選考についての対談を収録して表に出すのも、実験の一つです。
あと、これは宮嶋くんと矢野さんにやっていただいた作業ですが、暴力表現や性的な表現が入っている作品をきっちりチェックするということをしました。「ひろしまアニメーションシーズン」は広島市の事業ですから、プロフェッショナルな関係者のみならず、様々な方が観る可能性がある。ある種の表現に関しては、ゾーニングや事前の告知が必要だと考えています。性的な表現や暴力的な表現が使われていることは、選考に何かしら影響を及ぼしましたか?
宮嶋
僕が強く推したけれどコンペインしなかったある作品はまさに、そういった表現が論点に上がりました。社会通念的に地上波で上映できないような内容であったとしても、それを跳ね返すぐらい作家が責任を引き受けて作っているなら問題はありません。しかし性的な表現や暴力的な表現にばかり目線が集中してしまうようでは、決して内容が強いとは言えない。これは皆さんと議論していく中で気付かされたことですが、暴力表現や性表現の持つリスクを冒してでも表現したいことがその作家にちゃんとあるのか、あるいはそういったシーン以外の見所が作れているのかを見抜かないといけないと思います。
矢野
暴力・性・飲酒など映画の告知事項を残しておく作業の際、単に「暴力シーンあり」と書くのではなく、それぞれのシーンがどういう暴力表現でどういう必然性があるのかを考え、文章として残しておくようにしていました。その暴力は暴力に対する糾弾のために描かれているのか、あるいはそれを志しているにもかかわらず、過剰な暴力性のために単なる暴力になってしまっているのか。そういったことを考えながら観たために、過激な表象を観るための訓練にもなりました。
また、暴力表現以外にもマイノリティや女性、クィアの表象は、寄り添うまなざしがなければ見逃しかねないと思ったので、作品から気づきを得るよう心がけていました。
山村
作り手の側も選ぶ側も無自覚ではいられない難しい問題です。僕個人としては、倫理規定みたいなものを作品の外側から求めるべきではないとも思っています。ただ地域や時代によって見せることができる作品が限られてくるので、仕方なく選ぶことができなかった作品もあります。本当は見て欲しいのに、どうしても日本の倫理規定から外れるために公の上映では流せない作品もありました。そういう作品もたくさん眠っているのだということは、皆さんにも知ってほしいです。
土居
宮﨑さんには小さいお子さんもいますし、若い学生さんもたくさん抱えていらっしゃるので、暴力表現や性的表現については特に気にされていましたよね。学生さんに新千歳空港国際アニメーション映画祭の受賞作品を見せた時に、過激なシーンに戸惑っていたという話もされていました。
宮﨑
作家がどういう意図で暴力表現を用いているのかは、もちろんちゃんと解釈しなければなりません。しかしそれ以前の問題として、映画祭は公のものなのなので、ある種の線引きは必要だと考えます。例えば暴力表現が作品の重要なファクターである時に、そういう表現に慣れていない人がその作品を観ると、そこにばかり目がいってしまうせいで本題が入ってこないことがあります。土居さんがおっしゃったように、10代の学生に作品を見せたところ性的表現にビビってしまい、私が見て欲しかった部分が伝わらなかったという経験もしたので、こういう表現があるとあらかじめ示すことで、観客と作品との良好なコミュニケーションを担保したいと考えています。
広島には過激な表現に慣れていない人の割合が例えば東京と比べると多いと思います。土地柄としても玄人過ぎなくて素人にも優しい地方都市ですし。広島の人に向けた配慮が、同時にグローバルなスタンスにも繋がっているというコミュニケーションができれば理想的です。
土居
映画祭にも、完全にプロフェッショナルに向けたものと、地元のオーディエンスを含めた市民向けのものがあります。「ひろしまアニメーションシーズン」はその両方にまたがります。プロフェッショナルのために様々な表現を観せつつ、一方で、こういう作品を見慣れていない一般の人にとっても開かれている必要があるので、過激な表現については事前に告知をするという形でバランスを取ることを考えています。宮﨑さんの今のお話は、今回の映画祭の見せ方の方向性について、うまくまとめてくれたと思います。
※次回からは選考委員による各コンペティション、各プログラムの見所を紹介します。