ひろしまアニメーションシーズン2022

JOURNAL ジャーナル

2022.06.20 AIR活動報告 公式レポート

【是恒さくら:マンスリーレポート】2022.5

5月1日から広島市佐伯区皆賀(みなが)のコミュニティ施設「minagarten(ミナガルテン)」でのアーティスト・イン・レジデンスが始まりました。
園芸事業跡地の大きな倉庫を回収した建物は広々として、屋内外に植えられた多種多様な植物に囲まれとても気持ちの良い場所です。
近隣には畑「ミナバタケ」もあり、毎週水曜日・土曜日の午前中は畑作業にも参加できます。収穫や植え替え、水やりなど世話をして、旬の採れたて野菜を分けてもらいます。
私自身も広島県出身ですが、皆賀にはこれまで縁がありませんでした。レジデンスに入居してまず驚いたのは厳島が目の前に見えることでした。呉市音戸町で生まれ育った私にとって、厳島は子どもの頃から年に一度だけ訪れる、遠くて特別な場所でした。
それが、皆賀からは目と鼻の先に見えるのです。

アーティスト・イン・レジデンスで滞在しているミナガルテン

 

ミナバタケで採れた野菜と食用花

滞在を始めると、この土地の歴史や風景の成り立ちにも興味が湧いてきます。
まず面白く感じたのは「皆賀」の地名の由来です。鈴が峰の山麓であるこの地は元々水はけが悪く、洪水の時には山からの水が長らく滞留したことから「水長(みなが)」村と呼ばれたそうです。
大雨のたび水害を招いた旧八幡川の流路変更計画が立てられ、川の流れを変え水難を免れた村で皆が賀した(喜んだ)ことから「水長村を皆賀村と改めた」と寛文4年(1664年)の記録にあるそうです。
今の八幡川はミナガルテンのすぐ近くを流れています。川を下って海まで歩いてみると、アオサギやカワウなど様々な水鳥が広い干潟で気ままに過ごしていました。
河口の先に見える「津久根(つくね)島」や、港近くの海老山(かいろうやま)の伝承も面白く、郷土資料も調べながら風景と物語の関わりを探っています。

八幡川

海老山/右奥と塩屋神社の鳥居

5月18日には、平和記念公園にある「原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)」へ「原爆死没者名簿の風通し」を見に行きました。
年に一度、梅雨に入る前の5月の半ばに行われていますが、私も今回初めて見学しました。
慰霊碑の石室を開き、取り出した名簿を一冊ずつ開いて状態を確認します。原爆投下時刻の午前815分の黙祷とともに始まる慰霊の行事でもあります。
現在までに奉納されている122冊の名簿には、広島の被爆者328929人と、広島での奉納を希望した長崎の被爆者12人が登載されています。慰霊碑の前で白い布の上に並べられた分厚い名簿には、まだ新しく紙も白いものもあれば、年月を経たように黄色味を帯びたものもありました。
石室や奉安箱、慰霊碑の周りも清掃され、名簿の風通し後は元のようにぴたりと石室が閉じられました。

 

私の曽祖父母と大叔母も原爆死没者として慰霊碑の名簿に登載されていたことを、この度広島市に調べていただきました。一冊ずつ一頁ずつ手作業でめくられていく死没者名簿は、雲ひとつない青空の下、緑あふれる平和記念公園の空気に触れて呼吸しているようにも思えてきます。
私の前の是恒家の人たちもそこにいると思うと、慰霊碑は大きな墓所なのだとも感じます。
原爆死没者慰霊碑の時は止まることなく、今を生きる人たちの手によって開かれ、同じ風の中で過去と現在を結びつけ記憶を継いでいます。

原爆死没者名簿の風通し

今回アーティスト・イン・レジデンスが始まるまで、私は約7年間広島県を離れて暮らしていました。お正月など短期間だけ実家の呉市に戻ることはありましたが、日々この地で生活し、5月の日差しや海風の匂いに包まれながら街を巡り川辺・海辺を歩いていると、自分の原風景である瀬戸内海の風景と今目の前にある風景とが重なって見えてきます。
八幡川の河口で悠々と過ごす鳥たちを見ていると、小学生の頃に海で出逢った、綿飴のように丸まって眠る一羽の真っ白なシラサギを思い出します(捕まえられそうなほど近くで観察できたのです)。
港で涼んでいたら、自転車でやってきた小学生たちが海を見て「満潮だ!」とうれしそうに言い合う様子にも、瀬戸内海で過ごした子ども時代への懐かしさを感じます。

今月は皆賀を拠点にしながら、広島市内の美術館やギャラリー、市外では江田島、下蒲刈島、尾道、愛媛県四国中央市など各地を訪れ、瀬戸内海の水にまつわる様々な風景を取材しました。
自分の原風景との重なりから新たな発見もありました。今月の体験をもとに作品づくりを進めていきます。