【是恒さくら:マンスリーレポート】2022.6
滞在2ヶ月目となる6月。広島市上八丁堀のgallery Gにて行われた、ひろしまアニメーションシーズン2022のアーティスト・イン・レジデンス招へい作家の紹介展の開催も重なり、多くの出会いの月の始まりとなりました。紹介展で私は、過去作の刺繍や網の作品に加え、これから滞在先のミナガルテンで行うワークショップや制作するアニメーションのイメージ・スケッチも展示しました。網目に刺繍を縫い合わせた作品「とらう」は北海道で暮らす中で制作したものでしたが、生まれ故郷の呉市・倉橋島で10代の頃に漁網を編むアルバイトをした経験が元になった作品だったので、広島で展示できることを嬉しく思いました。
展示の終盤には、招へい作家のマフブーベフ・カライさんも来日しました。アーティスト・トークでは、広島に来たばかりのマフブーベフさんからこれからの日々への熱意を感じました。広島市に夏の訪れを告げるお祭り「とうかさん」も3年ぶりの本格的開催となり、マフブーベフさんも連れ立って夜の熱気の中に繰り出しました。新型コロナウイルス感染症が世界中に拡大してから途絶えていたさまざまな活動がようやく復活し始めています。その数日後にはナタ・メトルークさんも来日し、招へい作家3名が広島に集いました。
私の滞在場所である五日市のミナガルテンでは、所在地である「皆賀」という土地へのリサーチと、市民参加型のワークショップ「街かどアニメーション教室」の準備も進んでいます。皆賀を流れる八幡川。この辺りを225年前、1797(寛政9)年に旅し絵図を残した、岡岷山という広島藩士・絵師がいました。6月7日、湯来町在住で岡岷山に詳しい佐々木章さんに、皆賀から湯来町まで岡岷山が描いた場所を案内してもらいました。まずは、ミナガルテンから歩いて十数分のところにある「餓鬼の首地蔵」。岡岷山の時代には「がきが首」と言われ、道の両側に険しい崖があったことが絵図からわかります。現在、崖は跡形も無く、道路は綺麗に舗装されて新しく、八幡橋へと続いています。岡岷山の絵図と現在の風景を見比べながら、「200年も経つと、こんなにも変わってしまうのだな」と感じます。
佐々木さんに案内してもらい、河内峠、鍋石、水内(現在の湯の山温泉)、たらたらの滝、多田村温泉(現在の湯来温泉)と次々と巡って、「船岩」という巨岩の風景を前にして驚きました。この場所から見える風景は、岡岷山が描いた時代とそれほど変わっていないように感じます。集落を見下ろすように小高い場所から身を乗り出す、平たく大きな船岩。背景に連なる山々はなだらかで、麓には家々がまとまって並んでいます。家々の作りは江戸時代とは異なるものの、船岩も、山々も、そのままここにある。
川の多い街である広島市の中でも、皆賀と八幡川の歴史はとても興味深いものです。皆賀と五日市、そしてその間を流れる八幡川の歴史や風景の変化を知りたいとの思いから、6月17日には、広島市の学習塾経営者であり郷土史家としても活動されている河浜一也さんを囲んでお話会を開きました。「皆賀(みなが)」はかつて「水長(みなが)」と書き、水が溜まる土地でした。たびたび氾濫していた八幡川の付替工事を行い、「皆が賀した(喜んだ)」ことから「皆賀」となったと言われています。
江戸時代前期頃に行われたと考えられている八幡川の付替工事だけど、付替の正確な場所や川の付替の方法など、記録に残っておらずわからないことも多いそうです。河浜さんのお話では、地形や時代ごとの地名の移り変わり、今も残る小字名、八幡川の西側と東側に分かれていた「五日市」と「水長=皆賀」それぞれの農作物の収穫高の記録、川の水を利用した産業の変遷、海辺の風景の変化などをふりかえりました。すると、川の流れを変えながら起きてきた歴史の層が浮かび上がってくるのです。
岡岷山が描いた風景と現在の街並みの変化を見比べる。江戸時代の山陽道で京都と太宰府を結ぶ道だった「西国街道」は、今も寺院が並ぶ五日市駅近くの通りにある。かつて川があった土地を埋め立ててできた細長い土地に、今は大型店舗と駐車場がある。その両側になぜかある道路は、かつての川土手なのだと気づく。江戸時代から大正末期まで、川舟が行き来していたという八幡川。川床には舟底を傷つけないための枕木が残る。川舟はわらで編んだ袋を積み、海へ出て現在の呉市音戸町へ向かい、石灰を入れて戻ってきた――私の故郷の倉橋島・音戸町へと八幡川の風景が連なっていく。約一ヶ月、皆賀を拠点に自分の足で歩き興味を持ったさまざまな風景にも重なってきました。
7月から行うアニメーション教室では、皆賀・五日市と八幡川の風景の変化を題材に、川や海の風景を作り・動かしていく映像を作ります。